矛盾だらけの摩周湖マイカー規制:エコでは無くエゴ


北海道大学大学院理学研究院・准教授・角皆 潤

2008年6月25日、北海道弟子屈(てしかが)町は自動車排ガスによる環境悪化などを理由に、今年も摩周湖でマイカー乗り入れ規制を行うと発表した。代わりに湖へ町内からバイオディーゼル燃料使用の代替バスを、ひとり700円で運行するとのことである。これは本当に摩周湖のために観光客が負うべき負担なのかどうか考えてみた。

右上図 摩周湖の位置(国立環境研GEMS/Waterプロジェクトのホームページより)

右下図 代替パスの運航予定ルート(点線)(弟子屈町ホームページより)

まず自動車排ガスによる摩周湖の環境悪化とのことだが、本当だろうか。今回の規制の典拠である、北海道運輸局の報告書(平成18年度および19年度の「摩周湖周辺におけるエコ交通整備検討に関する調査」)を読むと、具体的な環境悪化の例として「湖水の透明度低下」「周辺木の立ち枯れ」「展望台でのガス臭気に対する苦情」の三つが挙げられている(ただし立ち枯れや臭気については具体的なデータは無い)。一方、展望台における大気環境調査の結果も紹介し、観光客が展望台を訪れることでNOXが高濃度になったと訴えている。しかしその値を見ると、一般的にはなんら問題視するレベルにはみえない。また、この低レベルのNOX(もしくはその他の排ガス成分)が具体的にどのような形で環境悪化をもたらしているかについては一切言及していない。同報告書中でも「摩周湖の透明度低下と排気ガスによる大気汚染との因果関係は、まだはっきりとはしていない」ことを認めている。にも関わらず、「環境に与える負荷という観点からは、大きな影響を与えていることは確かである。」と一方的に結論して、規制の導入を訴えている。

NOXの寿命を考えると、展望台で放出されたNOXの大部分が沈着するのは、摩周湖から100キロ以上離れた太平洋上であろう。そもそもNOXをほとんど排出しないガソリン車から、多量のNOX放出を特徴とするディーゼル車に乗り換えさせるのは、NOX低減策としては本末転倒である。さらに平成19年度報告書には、18年度には言及の無かったCO2の削減が規制の目玉として新たに登場する(これが代替車をディーゼル車にした理由のようです)。しかし、これは時流に迎合したあと付けの理由であるのは明らかで、論理的には破綻している。摩周湖に先にのべたような環境悪化が実在したとしても、それらは展望台を訪れるマイカーが余分に放出するCO2が原因ではありえない。もちろん摩周湖の問題とは切り離して、一般論としてCO2排出量を削減するのは結構なことかもしれないが、町民も道民も排出しているCO2の排出削減を、摩周湖観光客の中の一部だけに強制的に負担させるのは、負担の合理性を欠いている。

そもそも透明度低下はそれほど深刻なレベルなのだろうか。確かに41.6 mの透明度が報告されたことがあるが、これは1931年の観測である。1950-60年代には、透明度の報告値はすべて30 m未満となっており、最新(2007年)の観測値である26.8 mと有意な差は無くなる。もし仮に透明度の低下が有意な変化であるとしても、1930年から60年までの間に大きく低下していたことになるので、排ガス原因説とはあきらかに矛盾する。また公道の封鎖までしなければいけないほど深刻な状況には、どうしても見えない。

ディーゼル車の使用もおかしいが、それ以外にもこの規制には、摩周湖の環境保全を目的とした規制なのか疑問を感じさせる内容が多い。例えば、第三展望台側の道道は3 km以上摩周湖側に乗り入れが許可されていて、明らかにその途中に位置するゴルフ場(弟子屈カントリークラブ)のマイカー客を規制対象から外している。またタクシーが規制の対象外だが、もし観光客がタクシーに乗り換えると、NOXもCO2も排出量はむしろ増える。一方で、マイカーであれば、プリウスやフィットはもちろん、二輪車も規制対象で乗り入れ禁止なのだそうが、昨年のバスの平均乗車人数実績(1台平均10名未満)から考えると、これらの車種については規制対象にしない方が、NOXもCO2も排出量は減るだろう。

そもそも先の報告書を答申した審議会には、環境科学を専門とする委員は皆無である。他方、地元の観光業やバス会社関係者が多数名を連らねている。環境保全を第一の目的として、複数の選択肢の中からマイカー規制を選んだようにはとうてい見えない。むしろ代替バスの発着点を見ていると、マイカー客を乗り換え場所である市街地に誘導して、一儲けしようという魂胆が見え隠れする。今回のマイカー規制は市街地側の展望台のみの規制で、市街地と正反対の裏摩周展望台側には一切規制が無いが(つまり裏摩周展望台ならマイカーで行ける)、これも観光客を市街地に誘導することが目的と考えると合点がいく。さらに弟子屈町の広報誌(「てしかが」2006年12月号)では、「摩周湖の変化が車の排気ガスだけの問題とは考えておりません」ことや、「現在の通過型観光から長時間本町に留まって頂く、滞在型観光を目指すことが重要」なことを明言してしまっている。

もちろん観光によって地域の活性化を目指すことも、滞在型観光を目指すことも悪いことでは無い。問題は当人たちは本音ではどうでも良い「摩周湖周辺の環境保全」を目的と言明して観光客を欺き、摩周湖を人質にした上で、負担を強制している点である。これは官製のエコ偽装であり、自分たちさえ儲かれば良いという地域エゴそのものである。観光客は、摩周湖の環境保全に役立つと信じてマイカーを降り、料金を支払うわけだが、こんな努力を毎年積み重ねても、摩周湖の透明度が41.6mになることはない。また、欺かれたことを知った観光客が、北海道観光に、あるいは環境保全に対して好印象を持つはずがない。なお、関係者はこの偽装は当面は発覚しないつもりでいるのかもしれないが、一連の対応が矛盾だらけであることは、大学院修士修了程度の環境科学の基礎知識があれば誰でも気づく程度にお粗末な内容である。私が告発せずとも遠からず露呈しただろう。

環境に対する各種負担の増大が避けがたい昨今の社会状況下で、我々は環境負担を、最小限で、効率的で、応分にしていく努力が必要である。エコなら何でも良いわけではなく、効率の悪い負担や、正当でない負担は排除するべきである。また応分の負担を決めるためには、学術的に正確な情報と理解が不可欠である。公的な機関が、「自動車排ガスで透明度が低下」などと言うような、情緒的で誤ったメッセージを発信することは許されない。

弟子屈町役場のページ
弟子屈町による摩周湖マイカー規制通達のページ(リンク切れのためpdf版を掲載)
広報誌「てしかが」2006年12月号(リンク切れのためコピーを掲載)
北海道運輸局「北海道遺産・摩周湖周辺におけるエコ交通整備検討に関する調査」報告書(マイカー規制の報告書が閲覧できます)(しょっちゅうリンク先が変更になるためダウンロード済みの資料を掲載)
北海道運輸局「摩周湖エコ交通整備プロジェクト検討委員会」委員名簿(上記の報告書を答申した委員会の名簿です)(リンク先が消滅したため、手元の資料を元に角皆が作成)
国立環境研究所 GEMS/Water 摩周湖モニタリングのサイト(摩周湖を継続的にモニタリング調査しているGEMS/Waterプロジェクトのサイト。摩周湖の貴重な科学データ集が閲覧できます)
Copyright(c) 2000 Biogeochemistry Group Nagoya University Graduate School of Environmental Studies. All Rights Reserved.