2005 年度 地球惑星科学専攻 修士論文要旨集
2006 年 2 月 3 日

氏名 前川 健二
論文題目 前弧域海底からのメタン放出過程とメタンの起源について
論文要旨  前弧域海底の南海トラフでは、フィリピン海プレートがユーラシアプレート の下に沈み込んでおり、海洋プレート上の堆積物がはぎ取られ付加体を形成し ている。付加体上では間隙水が局所的な場所から搾り出され冷湧水と呼ばれる 湧出孔を生じている。冷湧水の化学組成は、海水と大きく異なり、特にメタン に富んでいる事が知られている。このため、湧出孔の周辺にはメタンをエネル ギー源とするシロウリガイの生物群集が多数みられている。一方、同じ南海ト ラフには、泥火山と呼ばれる深部の堆積物が海底面に吹き出して形成されると 考えられている海底地形も発見されている。なかでも熊野沖海底で見つかった 泥火山では、やはりシロウリガイ群集が多数確認されており、活発なメタン放 出が期待される。

 メタンは大気中において温室効果気体としてふるまうことが知られており、 地上に存在する主要放出源における放出量や生成プロセスが関心を集めてい る。海洋は全自然放出源の6%程度にすぎないと見積られており、現段階では それほど大きな放出源とはなっていない。しかし温暖化が進行すると深層水の 温度上昇が海底下のメタンハイドレート融解を引き起こし急激なメタン放出に 繋がる危険性があり、これが温暖化を一層加速させる可能性がある。さらに過 去の地質記録には実際に海底から大気への大量のメタン放出が起こった事を示 す痕跡が数多く残っている。

 そこで、本研究では現在の海底の局所的な放出源における海洋中へのメタン 放出量を調べる事を目的に、特に活発なメタン放出が起きている可能性がある 前弧域海底の初島南東沖冷湧水域と熊野泥火山#5においてメタン放出量を見積 もり、さらにそのメタンの成因を解析する事を目指した。局所的な放出源にお けるメタン放出量を見積る手法としては、海水中に形成されるメタンプルーム を利用し、これに移流拡散モデルを適応する事で概算した。また、放出される メタンの生成プロセスを探る為に局所的な放出源の堆積物をピンポイントで採 取し、含まれるメタンや二酸化炭素の炭素同位体比やメタン/エタン濃度比を 定量した。

 初島南東沖冷湧水域周辺では、湧水域からの海水へのメタン放出によって水 深1,160m付近を中心に最高濃度177nmol/kgのメタンプルームが確認された。ま た、メタンプルームの分布から見積ったメタン放出量は7×10^8mol/year程度 と一般の海底熱水系の10^4倍程度に達しており、冷湧水は深層におけるメタン の主要な発生源となっている事がわかった。また、メタンプルーム中のメタン の炭素同位体組成をもとに見積った放出されるメタンの炭素同位体比はδ 13C≒-69‰VPDBであり、湧水域周辺で採取した堆積物試料に含まれていたメタ ンの炭素同位体比とも一致しており、一般の海底堆積物中浅部で見られるメタ ンの炭素同位体比であった。同位体比の結果や堆積物中のメタン/エタン濃度 比を合わせて考察すると今回採取された初島南東沖冷湧水域のメタンは堆積層 浅部で微生物活動によって生成されたと結論された。

 一方、熊野泥火山#5周辺では、泥火山からのメタン放出に起因すると考えら れるメタンプルームが水深1,600m付近に確認され、最高で87nmol/kgを記録し た。このメタンプルームの分布をもとに泥火山からのメタン放出量を見積ると 1×10^8mol/year程度で初島南東沖冷湧水よりは規模が小さいが海底熱水系に 比べ桁違いのメタンを放出している事がわかった。また、メタンプルーム中の 炭素同位体組成から見積った放出されるメタンの炭素同位体比がδ13C≒-50‰ VPDBであるのに対し、堆積物試料中に含まれるメタンはδ13C≒-40‰VPDB程度 であり一致しなかった。そこで、海底堆積物中におけるメタンと二酸化炭素の 濃度およびその炭素同位体比の分布を調べると、その分布は極めて不均一であ り堆積層深部で有機物を起源として微生物分解や熱分解で生成したと考えられ る二酸化炭素やメタンの他に海底直下で生成したと考えられる二酸化炭素やメ タンも含まれている事がわかった。つまり、泥火山は深部の堆積物が上昇の途 中で浅部の堆積物と混ざり合う為に山体は不均一であり、堆積物中とプルーム の炭素同位体比の不一致はそれを反映したと考えられる。ただし、全体を通じ 考察を行うと、泥火山では、熱分解起源よりも微生物起源のメタンの方が卓越 していると考えられ、特に今回調査した熊野泥火山#5の測点では、ほとんどの メタンは微生物活動によって生成したものであると結論された。